がんと共に生きる会の成り立ち

がん医療への取り組み

新山義昭初代会長(故人)が『患者会を作りたい』と仲間に打ち明けたのは、1999年秋のことでした。
その理由は二つ。『1.患者同士の交流を促すため』と、『2.世界標準の抗がん剤治療をいつどこででも、保健診療で受けられるようにするため』でした。1の、患者同士の交流を促す必要を感じたのは、短期間での入退院を繰り返す化学療法の患者たちは、病室で孤独にカーテンを閉め切っている人も多かったのですが、そうした一人に、ある日声をかけ、一緒に近くの銭湯に行った所、それ以来その方は明るく饒舌に話すようになったという経験からでした。
2については、日本では非小細胞肺がんにしか保険適用されていなかったジェムザールを使用できるように、世界標準の抗がん剤の早期認可を求める署名を集めるため、一人で活動した経験からでした。国を動かすには、個人ではなく同じ思いを持った患者たちの集まりである患者会があった方が、より大きな声になり、力になると思ったのです。

1999年12月、仲間たちが打合せをする中で、会の名前をどうするかということになりました。あまり議論されることなく、「癌と共に生きる会」と決まりました。それは、まさに進行がんの医療の真髄だと思えたからです。
当時の医療には、進行がんの完治は非常に難しい現実がありましたが、それでも諦めずにできるだけがんの進行を抑え、「がんと共に生き」ていきながら、自分がやりたいことを、作られた時間の中で行い、自らの人生を納得のいくものにしていく…。
「共に生きる」というのは消極的で、「がんを克服する」というような名前の方が良いのではないかとの意見も出ましたが、「共に生きる」には、そうして寿命を伸ばしていく中で、新薬が生まれ、がんを克服する日がくるという期待も込められていたのです。

新山会長と厚生労働副大臣
佐藤均会長と厚生労働大臣

会員らが米国視察に訪れた時、乳がんが全身に転移していた女性が、新薬(ハーセプチン)の臨床試験に参加し、それが劇的に効いて、元気に過ごされている姿を目にしました。その女性に、日本では世界標準の抗がん剤の承認が遅いことを言うと、彼女は「どうして厚生労働大臣に電話をしないの?あなた方は、納税者なのよ。私だったら当然の権利として、大臣に、何故、世界標準の抗がん剤を承認しないのか、毎日電話しますけどね」とさも当然のように答えました。
新山会長はすでに、たった一人から活動を始め、ジェムザールをすい臓がんに承認させることに成功していました。しかし、承認されてみると、また新たな問題が浮上しました。その薬の価値を理解して使おうという医師が、地元にいないということでした。いくら世界標準の薬を承認させても、それを使える「腫瘍内科医」(化学療法専門医)がいなければ、宝の持ち腐れになってしまう…、つまり新薬とそれを使う医師とは「車の両輪」で、どちらが欠けても日本のがん治療は良くならない、ことから、「腫瘍内科医の育成」問題を活動の柱に加えました。

有楽町署名活動
第1回がん患者大集会を主催
2005.05.28.NHK 大阪ホール

すい臓がんと闘いながら活動を続けていた新山会長に、会員が聞いたことがあります。「病気を抱えながら、どうしてそこまでするのですか?」会長は、孫が書いてくれたという似顔絵を見せながら言いました。「私が受けた苦しみを妻や娘たち、それに孫たちに味わわせたくない。自分たちは仕方ないとしても、次の世代には世界標準のがん治療が受けられる道筋をつけておいてやりたい」。しかし、がん患者本人には、闘病もあり限界があります。米国のすい臓がん患者支援団体PANCAN(パンキャン)の活動を視察した時も、一番印象に残ったのは、患者の周りの家族が運動の中心になっていることでした。PANCAN は、すい臓がんで親を亡くした人たち二人が始めてからわずか5 年で1億円のお金を動かすまでに成長していました。そして、そこで活動しているのは、患者本人というよりもむしろ家族とボランティアでした。ポイントは、家族がいかに立ち上がるかで、それはものすごいパワーになるのだと実感したことです。

設立当初は患者がほとんどだった当会会員も、家族・遺族の占める割合が増え、めざす患者団体の形に近づきつつありました。3代目の会長となった佐藤均会長(故人)は、がん医療改善という長丁場の闘いを「駅伝」になぞらえてこう訴えました。
「心のタスキを会員、一人ひとりが大切につないで行って、日本のがん医療を変えて行こう」
初代新山会長から受け継いだ「愛する人に同じ思いをさせない」というタスキは、3代目佐藤会長の奥様でありNPO法人設立後の佐藤愛子理事長へ、そして現在の体制にまでしっかりと受け継がれています。